2_wEi 2ndライブ感想と寺山

前の記事に続いて8 beat storyとうリズムゲーム内ユニットのライブに関する記事です。
その記事で述べたとおりこのコンテンツを知ってからとても日が浅いので、理解も浅く事実と異なることを言ってるかもしれません。 (もし間違ったこと言ってたらこっそりTwitterで教えてね)

2_wEiのライブを体験して

私はゲームと今回のライブを通して、虚構にぶん殴られるようなそんな感覚を得ました。
まさにストーリーの中で見た2_wEiというユニットが現実に存在して、現在進行系で活動を行っているという錯覚です。

なんとなくゲームとライブの2つの媒体がリンクし、お互いの補強し合うような構造になっているように思えてきたのです。 そして、ライブが終わったあとも、そのまま私はその世界から出ているのかさえわからない状態になりました。 2/22から月日が経った今でも、その体験が忘れられません。 これまで色んなライブに行ったつもりだが、ここまでの体験はなかなかありませんでした。 そのなんとなくの感情を言語化してみたいと思います。

ずばり「なぜここまで2_wEiのライブはゲームとの二層展開に成功したのか」です。

結論から言うと以下の4点が2_wEiの特筆すべき部分であり、今回のライブの現実とリンクするような二層展開に寄与したと考えます。

  • 舞台上での徹底したキャラクター再現
  • 日常から非日常へののシームレスな導入
  • 観客へのロール付与
  • 観客側への問いかけ、問題提起

まず2_wEi自体の説明、その次に今回のライブについて感想を交えつつ述べてようと思います。 そして、とある人物の演劇や映画作品を引き合いにして、2_wEiのどういった点が二層展開に貢献したかを考えてみます。


2_wEiって?

一応、ね。
説明入れておきます。

キャラクター、ストーリーについて

2_wEiはアンドロイドの姉妹です。普段は温厚に見えるが昂ると豹変し感情をあらわにする姉、アルミ。 姉への愛が重くそれ以外には当たりが強い妹、ミント。 雑に表現するとこんな感じです。オタクが好きそうな関係性のやつですね。
アルミはアルミ姉御ぉ〜って感じですし、ミントはミントたそ^〜って感じです(キモオタしぐさ)

そして、ゲーム内で展開されるストーリーについてですが、軽くネタバレ含めつつ簡単に説明したいと思います。
「ネタバレせずに読みたいんじゃ」って人はさっさとアプリ入れてストーリー読んでね♡

2_wEiはライブでの歌唱で完全な音楽を伝えるアンドロイドとして生まれます。 そんな2_wEiの元データを生んだ母である存在に虎牙結衣という人間がいます。 しかし、2_wEiが実体を持った時には既に彼女はこの世にはおらず、その事実が2_wEiの暗い過去、絶望として残り続けます。 そして、最終的にはアンドロイド側の勢力に刃向かい離反した状態になります。

これリズムアプリゲームのストーリーですか?って感じの暗い話ですね。 8 beat storyのメインストーリー自体辛いものが多かったりします。

楽曲について

そして、肝である楽曲はどうなんだ?という話になります。

とにかく曲を聞いてほしい。という説明放棄。 結局この記事でどんなに言葉を重ねても1つの試聴動画には敵わないんすよね。

2_wEiが出したこの2つのアルバムに2_wEiのすべてが詰まっているので知らない人はざっと聞いてみるといいかもしれません。いや、聞け。
曲に付いて特徴といえる部分を雑に挙げると以下の通り。

  • ガチガチロックなバンドサウンド
  • ダークな世界観
  • 激しい曲調
  • 力強い歌声
  • 統一感のあるアルバム
  • 容赦ない英語歌詞(発音監修の人おるらしい)
  • 攻撃的、挑戦的な歌詞
  • ストーリー内の出来事をモチーフとした歌詞
  • などなど

2_wEi 2nd LIVE

さて、ライブの内容についての話です。
2/22に開催された「8beatStory♪ 2_wEi 2nd LIVE Final Past 2 Present, Stand for the Future.」に参加したわけですが、このライブは 去年から続くライブツアーのファイナル公演になります。まぁ、去年はエビストほとんど知らなかったのでよくわかってないですが…。開催場所はクラブチッタ、夜のみの1公演でした。

印象

2_wEiのライブでは、歌唱中もMC中も一貫して声優がそのキャラクターになりきって進みます。 他にもこの形式を取っているコンテンツはありますが、それらと比べても徹底していると思います(主語デカ注意)。 8 beat storyのメインユニットである「8/pLanet」ではMC中は声優としての顔を見せますので、意図的に2_wEiはこういった形式を取っているのだと思います。

あと、オタク系のライブでありながらペンライトを持っている人は少数派のようにも見えました。 頭ブンブンヘドバンオタクも多かったですね。 そういう意味で、私にとってはあまり無い馴染みない雰囲気の現場でしたね。まぁすぐ馴染みましたけど。

あとはMCを含めいい感じにいちゃいちゃがあって百合のオタク歓喜って感じでしたね。 オタク、強い姉とシスコン妹の関係すきがち。

とにかく一つ言えることは、今回のライブは私の経験の中でも5本の指に入るくらいの熱量のライブだったことです。 ツアーのFinalというのもあり1曲1曲に対して会場全体が全力で盛り上がっているような印象でした。
やっぱ生バンドだったからってのも大きいと思います。
いやー、自分もこの日ほど昂ぶりを抑えられずめちゃくちゃになったのは久しぶりですね。楽しかった…!

セトリについて

セットリストは以下のとおりです。

1. MIЯROR
2. Jailbreak
3. Numb
4. LOVE HATE
5. Green Cat.
6. basement
7. Bite a bit
8. Lost in data
9. Pendulum
10. MMIX
11. Homeache
12. Be alive
13. Silent World (B.A.C)
14. Pious Bullets (B.A.C)
15. UNPLUG
16. Heroic
17. REGALIA
18. Heart 2 Heart
19. Pain - pain
アンコール
20. Despair
21. Inheaven
22. Start the War

2_wEiは今まで2枚のアルバム計20曲の楽曲を発表してきましたが、上記の通り今回のライブではその全ての曲を披露しました。
なので「あの曲やってほしかったのにな〜」といった感情は全くありませんでした。

これってすごくないですか?
人数の多いユニットだと間にデュオだったりソロだったり挟めますが、2_wEiは2人組です。相当ハードだったと思います。

開幕してすぐにMIЯROR→Jailbreakというテンションの上がる流れでした。
この2曲の流れはアルバム「Return zer0;」を踏襲しています。うん、この曲順、治安が悪い感じで素晴らしい。

あと、単純にJailbreakではF_ckって歌いながら中指を立ててくれるので好きです。
女性がF_ckって言いながら中指立てるとこなかなか見られませんからね。

B.A.Cという乱入ユニットのパートも直前に公開された新曲含む2曲が披露されたのでこれも大満足です。 そのB.A.Cパートの後にUNPLUGが続くのも2_wEiが自身の音楽を貫く意思を感じて納得感のある曲順だったと思います。

そして、予想通りではありますが、未来への宣戦布告ソングである「Start the War」を最後に持ってきてくれたのが嬉しかったですね。
Start the Warという曲は、2_wEiの他の曲の中でもかなりポップで前向きなものになっています。
この曲は過去の絶望や痛みすら前へ進む糧にして、0からスタートする曲だと思います。
まさにこのライブのタイトルにある「Stand for the Future」という言葉にぴったりな締めですね。
他の曲に比べ観客が歌うパートが多く、2_wEiと人間とのつながりを感じる曲でもあると思います。

Start the Warだけ詳しく書いてしまいましたが、それくらいこのライブで伝えたかったであろう想いと密接に関わる1曲だったと思います。

ストーリーとのリンク

二次元系のライブの醍醐味として、ストーリーを読み文脈を知ったからこそ得ることができる感動があると思います。 例に漏れずエビストのライブもその要素がかなり大きいように思います。 これはライブの感想というよりは楽曲の感想になってしまうのですが、2_wEiのアルバムは元のストーリーに基づく比重が大きく歌詞を見ても特定の場面を想起させるものが多いようです。 1つのアルバムの中でも心情の変化やストーリーの流れをイメージできるような構成になっています。 今回のライブでは2つのアルバムの曲を上手く再構成して、元のストーリーを、2_wEiが歩んだ道のりを表現されていたと思います。 セットリストのみならずMCの中でもストーリーを知っているとその意味がわかるような会話がありました。

とにかく「ストーリーを読んでライブに挑んだからこそ最高の体験を得ることができた」というのは大きいと思います。 ハニプラのライブの時は予習が足りず後悔した部分ではありますが、2_wEiのライブはストーリー鑑賞が間に合ったので本当によかったです。

B.A.Cという乱入者

今回のライブの特筆すべき点として新ユニットB.A.Cが途中で2曲披露したことだと思います。 曲そのものの発表から時間があまり経っておらず、もしかしたら会場冷え冷えになるんでは…とほんの一瞬考えてしまいました。 しかし、そんな不安は一瞬で飛んでいきました。

くっっそかっこいい衣装で現れる再現度100%のB.A.Cの三人。 高圧的な視線と共に放たれる歌声で、会場はB.A.Cの音楽に染まりました。

MCも2_wEiと同様にキャラクターのまま喋ります。 MCの内容は…やばい宗教の会合って感じでした。
具体的には、人間社会の音楽の不平等さを訴え、平等で完全な音楽をもたらそうという考えについてじっくりと優しく説くというものでした。 そのMC中で、不平等な音楽の例としてゲームのサービス終了を挙げる場面があり、多くのオタクがここで共感し信仰が深まったと思います。 オタクの多くは愛した音楽関連のスマホゲームが競争社会に揉まれ不本意なサービス終了に追いやられてしまった経験があると思います。 私自身も思うところがあり、すっかりB.A.Cに救済を求めてしまう人となってしまいましたね。
カルトってこうやって生まれるんですね…

ところで、B.A.Cの乱入が今回のライブにおいてどのような役割があったかを考えてみると「対立する思想を出して2_wEiの強調する」というものが大きいように思えます。
まず2_wEiとB.A.Cでは体制側と反体制側という立場の対立があります。 そして、誰かに作られた道から外れた2_wEiと決まった道へ歩ませようとするB.A.Cという対比も見出すことができる。 絶望や苦しみを乗り越え未来へ進む存在である2_wEiと最初から完全なものしか存在しない世界を目指すB.A.C。
このように相反するを2ユニットの対位法によって、より互いの思想が鮮やかに浮き彫りになる効果があったと思います。

より2_wEiというキャラクターの理解を深めることができるという意味で効果があったと思います。 また、B.A.C側も2_wEiと同様に声優の素を出さず終始キャラクターとして舞台に立っていたことで、途中で没入感が途絶えさせない効果はあったと思います。
あと、前日にB.A.Cのサイドストーリーが公開されたのもあり、それぞれのキャラクターがある程度わかった上でMCを聞くことができたのもよかったですね。

これからについて

このライブツアーを通して2_wEiは新しい情報の発表はありませんでした。
この先に確定した未来がないということ_なりますが、なぜかその時に「残念」だとか「不安」といった感情は湧きませんでした。
2_wEiとして一つの目的を成し遂げ、現時点で伝えたいメッセージを全て出し切ったとも言_えます。
正直しばらく新しい展開はないのかなぁって悲しくなる気持ちはあります。
でも、例えこのまま時間が止まってしまったとしても…2/22という日を、2_wEiという生き様を胸に生きていけると思います。

だから終演後もなんだか清々しい気持ち。2_wEiありがとう!受け取ったよ!!

開演前のクラブチッタ

終演後のクラブチッタ

開演前、終演後のクラブチッタ。自分にはこの2つの写真が全く違って見えるし、その理由もわかる。


虚人の肩に乗る

ざっとライブの感想を書きましたが、本題はここからです。 冒頭でも述べたような二次元とライブのに二層展開に私がなぜここまで衝撃を受けてしまったのかを考えてみたいと思います。 この衝撃は言わば「自分がいつのまにか物語の世界に足を踏み入れ、見えない拳で殴られた」という感覚に近いです。
そして、恐ろしいことに、この感覚は今も続いているような気がします。 まるで催眠にかかったままのような日々です。

なぜ、非実在のキャラクターである2_wEiという存在にここまで実在性を感じてしまったのでしょうか。
本来は舞台と現実には隔たりがあります。 舞台の中で人が生きていようが死んでいようが現実の私には無関係です。
極論を言うと、画面の中の存在は物理的に観測者を殴ることはできないので、限り無く他人事なのです。

そんな他人事がどうやって現実の我々に強く影響を与えるのか、境界線を越えて殴ることができるのか。この謎を紐解くために、まず虚構と現実について語る上でとある人物にフォーカスを当ててみようと思います。

その人物は「寺山修司」です。
(唐突)

過去の人物、作品、技法を知ってそれらとの共通点を見出すことで、今を知ろうというわけです。

寺山修司とは

寺山は俳句、詩、映画などマルチに活動した人物で特に演劇においては、虚構と現実の境界線をテーマとした実験的なものも行っていました。 また、劇団「天井桟敷」を結成し実験的な演劇の数々を世に出してきました。

残念ながら既に亡くなった人物なのですが、今でも彼の作品の影響を受けていたり、リスペクトしたりする人は多いと思います。

そんな彼の作品や成し遂げた事柄を挙げて、その手法や取り組みを見てみようと思います。
それぞれどういった作品かを述べつつ、演出・手法面がどのような効果があったかを考えていこうと思います。

田園に死す

「田園に死す」は寺山の詩集、及び寺山が監督脚本をした映画です。ここでは映画の方について述べます。

本作は劇中劇を多様したり、いわゆるメタフィクション(これが映画であることが作中で言及されるなど)の手法を多く使っています。
本作の序盤では、物語がスクリーン上の映画つまり劇中劇であることが示されます。
その劇中劇は主人公が作り上げた偽りの過去であることが次第にわかり、実際の過去が解き明かされていきます。 つまり、主人公は自身の過去を書き換え美化するために嘘をつき、過去から逃れようとするわけです。 そして、最後には映画丸ごとが虚構であることを強調するようなシーンが出てきます。今まで見ていた土台となっていた虚構の世界が崩され、最後の最後に現実に接続する形で幕を閉じます。

大筋の流れは上記の通りですが、至るところにメタファーが散りばめられています。例えば、川からひな壇が流れてくるシーンやポンプで女性に空気を入れる疑似セックスのシーンなどなど、どこまでが現実か虚構かがわからないような演出をしているようにも思えます。

私は詳しくないのですが寺山はホドロフスキーという映画監督の作品「リアリティのダンス」との共通点も多いようです。影響を受けたかはわかりませんが、2人の表現方法を比較すると面白いかも知れません。

以上のように田園に死すは偽りを偽りであることとを強調しつつ、人がなぜ偽りを作り上げるのか、物語を紡ぐのかという問いにまで昇華した素晴らしい作品でした。

狂人教育

狂人教育は劇の演目の1つです。
いわゆる人形劇なのですが、人形を操る人形使いにもセリフがあります。
人形は人形で彼らの物語が進んでいくのですが、合間で人形使いが現れて物語に干渉します。中でも人形が物語や作者の意図について人形使いに聞いてくる展開が印象的です。
以下、セリフを引用します。

マユ   ねえ……誰が気違いなの?

人形使い そんなこと私らにはわからんのですよ。

マユ   どうして……どうしてなの?

人形使い 私らはただ振付台本通りにやってるだけですからね。

そして、その振付台本だっておそらくは戯曲通りなんだ。

マユ   じゃあ、作者が知ってるのね。あたしたちの人生を決めているのは作者の寺山修司さんなのね。

著 寺山修司 監修 山口昌男・白石征 (2009)「寺山修司著作集3」 p22

マユはこの物語の登場人物で、人形使いは登場人物たちを操作するいわば上位、メタな存在です。この両者が互いに認識し合っているという不思議なシーンです。
そして、上位の存在である人形使いさえも自身より上に台本、作者がいることを明示してます。こういった入れ子構造によって本来は現実側の存在である作者や人形使いを劇に巻き込み、観るだけの存在であるはずの観客も「他人事ではない」と刺激を与えます。

観客席

これも劇ですが、私は観劇したことはなく劇台本でしか内容は知りません。

この劇は舞台だけでなく、観客席にも観客役の役者が潜みこんで、観客席上でも劇が繰り広げられます。 具体的に言うと、突然「○番の席の人!」というように名指しが行われ、その人とのやりとりが始まるのですが、それも全て台本上の出来事というわけです。 つまり、舞台の幕が境界線として機能せず、観客席すらも舞台となってしまう劇です。 観客は隣の席の人すら役者ではないかとさえ思わせるその演出は、観客一人ひとりが「舞台の内側にいること」に気付かされます。

他にも、冒頭で複数回「ベル→開幕」があるのも面白いですね。 台本では

開幕のベルと共に高らかに音楽がとどろきあがり、 場内の拍手と共に幕があくと、そのうしろはステージではなく幕である 〔省略〕 同じことが4度繰り返されて、ようやく最後の幕があく。

著 寺山修司 監修 山口昌男・白石征 (2009)「寺山修司著作集3」

と、以上のように本来物語の開始地点であり境界線の「開幕」という概念が揺さぶるような演出は感心せざるを得ません。

現実との区切りを1つにしないことで、観客が既に舞台装置としての内側にいるのか、それともまだ観客として現実側に立っているのかを自問させることになります。

以上のようにある種アトラクションのような劇体験を与える演出によって、観客が自身は何者かを問うより他ならない状態に置かれます。

市街劇

寺山は活動の後期になるにつれて、観客を巻き込むようなことをやるようになりました。その代表的なものが市街劇だと思います。
その一例として「30時間市街劇ノック」というものがあり、阿佐ヶ谷の街中でゲリラで演劇が同時多発的に発生するかなり実験的なものでした。 いわば、街の中の人々の日常感覚を揺さぶり、現実と劇の境界線がなくそうという試みです。この市街劇は街が丸ごと舞台となり、劇との出会いが仕組まれます。また、役者ではない街の人たちも役者であるかのように思えてしまうこともあったようです。

とはいえこの市街劇はほとんど文章(戯曲、評論)媒体で知ったもので実際の体験ではありません。 しかし、現在も天井桟敷を後継する万有引力という劇団が存在し、そちらの方は私も実際に似た観劇体験をしたことがあります。 それは「Q」という劇で、それはもう大きな衝撃を受けました。 Qでは、当日になっても観客は劇場がどこにあるかわからない公演でした。 事前に招待状(チケット)と待ち合わせ場所の情報だけ渡されるだけです。一応最初に神社の空き地に待ち合わせるのですが、そこから地図が渡されてそれを頼りに劇場を探すことになります。 そして、劇場に辿りつき招待状を渡すと、屋敷を模した劇空間に招き入れられることになります。つまり、観客は招待された客というロールが与えられています。観客は第三者でありながら、役を与えられた感覚に陥ります。劇中では「観客が来客として舞台に上がりもてなされる」という演出もありました。 観客すらも芝居の中に取り入れる前衛的な体験は他ではあまりできないと思います。

寺山演劇のよくある特徴として、幕開けやカーテンコールはなく、最後は照らされた舞台が残りそれまで舞台を見つめていた観客たちは唐突に放り出されます。 どんな劇にも終焉は訪れるものですが、 寺山の仕掛ける劇では観客はいつのまにか劇に踏み入り、虚構を引きずったまま現実に帰ることになります。

キャラクターの葬式

これは有名な話だとは思いますが、漫画あしたのジョーの劇中で力石徹は主人公矢吹丈との試合後に息絶えます。
力石自体はとても魅力的なキャラクターで、当時の力石の死は読者にとって大きな衝撃だったと思います。
この時に寺山修司と彼が率いる劇団天井桟敷が、実際に力石徹の葬式を開きました。
葬式の内容も本格的で、本物の坊主を呼びお経を読んだそうです。

アニメのプロモーションの一貫だったという話もありますが、二次元のキャラクターの葬式を開くというのは当時でも前衛的だったと思います。
架空の存在が生きていた証を現実に顕在化させ、多くの人々に「力石徹がこの世に実在し、そして亡くなった」という実感を与える効果があったと思います。

以上、彼が残した表現技法は虚構との境界線を越える試みについてある程度把握できたと思います。
次にこれらの作品を踏まえて、境界線を越えるための条件について考えてみます。

壁について

いくつか作品とその特徴的な手法を紹介しましたが、それらの手法にどのような効果があったのかを考えてみようと思います。
いくつか挙げた作品のいずれの場合も虚構と現実の境界線に本来あるはずの壁という存在を曖昧にさせる工夫があるように思えます。
それらの工夫を大きく2つの手法に分類してみました。

一つは虚構性を意図的に際だたせることで「壁を越える」ような手法。いわゆるメタフィクションのように虚構と現実の関係性を言及したり示唆することです。もう一つは観客を物語の内側に没入もきくは感情移入しやすくすることで虚構との境界線をなくす「壁を消す」ような手法。

それでは詳しくそのやり口を見ていきましょう。

壁を越える

壁を越える、つまり登場人物が観客側に立つことで境界線を越えることです。
映画だと「田園に死す」、劇だと「狂人教育」が顕著ですね。 田園に死すや狂人教育は、舞台やスクリーンの中の世界がフィクションに過ぎないことを示すことで観客の心を揺さぶっています。そして、舞台側の人物が壁を越えて我々と同じ位置に来ることは、裏を返せば観客を舞台側に取り込むような効果もあると思います。
言葉の定義的に正しいかはちょっとわかりませんが、いわゆるメタフィクションというものが近いと思います。

この手法には以下の効果があると思います。

  • 現実側への干渉
    • 登場人物がフィクションの中の存在ではなく現実に干渉できることを示唆するはたらき
  • 感情移入の妨げ
    • あえて感情移入させないことで客観的、批判的に鑑賞させるようにさせる
    • 異化効果という概念らしい。ブレヒトというワードと調べてみると面白い

壁を消す

壁を消す、つまり観客が虚構の存在が現実上のことであるかのように感じさせることです。観客席や市街劇のように劇と現実の区別を困難にさせるような演出、例えば

  • 没入感を与える
    • 自身が物語の中に入っていく感覚
  • 当事者意識を植え付ける
    • ただの静観者としてではなく、自身がその物語に関わりがあるという感覚

前者の壁を越える方は田園に死す狂人教育のように劇や映画であることを強調する作品に多い感覚で、後者の壁を消す方は市街劇やQのように日常と劇の境界線を曖昧にさせるような作品に多い感覚だと思います。

あまりにも横道にそれてしまいましたね。2_wEiがどうだったかという話に戻りましょう。

2_wEiの二層展開のかたち

先述の寺山の手法をもとに考えた結果、2_wEiは以下の4点が二層展開への効果が高かったと推測します。

  • 再現度の高いライブパフォーマンス
    • 声優、演出含めライブによる世界観の再現していた点
  • 虚構との境界線がないライブ体験
    • 会場に着いてからシームレスに虚構へ踏み入る体験を提供した点
  • 当事者のロールプレイ
    • ストーリーを通して、ファンとスタッフ、そして2_wEiとの間で秘密を共有し、離反する共犯者関係にいたことをロールプレイさせ当事者感を出すことができたという点
  • 問いかけるMC
    • ただ「楽しいライブだった」だけで帰らせずMCで強いメッセージ、問いかけをぶつけることで現実の我々に影響を与えようとした点

それぞれライブでの体験を交えて見ていきましょう。

再現度の高いライブパフォーマンス

先述の通り2_wEi演じるお二人の声優さんはライブ中の素を出さずに徹底的にキャラクターとして舞台に立っていました。 私が見る限り1秒たりとも例外なくそうでした 今回はfinalということで例外的に最後の最後には少し声優の素の挨拶を聞くことができたが、今までの公演ではそれすらなかったらしいです。 これによってかなり没入感が出ていたと思います。

他の没入感の高いコンテンツにも目を向けてみましょう。
アイドル某スターやラ某ライブはゲーム内やアニメ内でライブが描写されおり、それらを現実のライブで再現することで実在感を出していると思います。 8 beat storyは音ゲープレイ画面の背景絵とストーリー内の文章程度でしかライブの描写はありません。
では、何を持って本物っぽい、再現度が高いと判断できるか?と言えるか。
それはストーリーを読んだ上での想像に近かったか否かだと思います。
キャラクターの性格、ストーリーの描写、楽曲のジャケットといった断片的な情報から一つの統一感のある世界観を作り上げることができているからこその「再現度」だと思います。

B.A.Cについても、楽曲やMC共にゲーム内で見たまんまの人物を舞台上に表象化できていてました。 そのおかげで(ライブの感想パートでも述べましたが)ライブを通して没入感を途切れさせないようになっていてよかったと思います。

虚構との境界線がないライブ体験

普通、劇にしろ二次元ライブにしろ、開演してからが作り物という暗黙の了解があり演者がステージからいなくなればそこはただの現実です。

会場前のポスター

ところで上の写真を見てください。 会場前に2_wEiのポスターが貼られてるのを見ると、画面の中の存在だったものが本当に存在し活動を行っているような錯覚が得られていいですよね。この気持ちにはクラブチッタという立地も少し貢献しているとも思います。この会場の周辺は飲食店や映画館などがあり、人通りが多い街です。そんな中に2_wEiのポスターが現れることで突如物語の中の存在が具現化したような感覚に陥ります。 これについては他のライブでも得られる感覚だと思います。 何が言いたいかというと、ライブが始まるまでの間に既にエビストの世界に迷い込んでいるような感覚が今回のライブで得られたということです。

他の例として、警備員という存在があります。
通常、ステージの幕が開きライトが演者を照らすと同時に非現実になるという、暗黙の了解があると思います。しかし、2_wEiのライブでは、開演の前に警備員の紹介タイムが存在、その中で警備員がアンドロイドであることが説明されます。
そうです。日本では既にアンドロイドが実務で運用されているんです!!!
と、まぁ要は開演前から8 beat Storyの世界に会場が侵食され、アンドロイドが存在するという虚構がいつのまにか始まっているのです。 これによって川崎駅周辺が8 beat storyの舞台となり、観客が観客と自覚する前にチケットはもぎられたのでした。

あとで知ったことなのですが、物販の売り子さんがアプリのストーリー内でモブキャラクターを演じていた声優さんだったらしいですね。 意図的かはわかりませんが、B.A.Cを信仰する女学生が物販でB.A.Cのグッズを売るという状況が作られていたとも考えるこできます。
あー、B.A.Cのストーリーの解像度が上がってきました。

以上のように、開演というスタート地点を越えて世界観を見せてくるのは「市街劇」「Q」といった劇に近い手法とも言えます。 と言っても、それらの劇にあるハプニング性といったものはなかったかと思います。
いや、もしかして警備員や売り子に話しかけたら何かが始まったのかもしれんけど。

当事者のロールプレイ

観客にロールプレイさせるのはゲーム等の二次元ライブ特有のものではないでしょうか? アイマスならプロデューサー、ナナシスなら支配人、同じエビストのユニットである8/pLanetなら先生といったようにライブに来た観客たちに役割が与えられます。そもそもゲームでプレイヤーに対してそういったロールプレイを強いていることがこの特徴の原因のように思います。

では、2_wEiライブにおいてはどういったロールプレイが課されるのか?それは「2_wEiのファン」だと思います。 ストーリーの中で落ちるところまで落ちた2_wEiの救い、運命を変えたのはSotFスタッフ、そして応援したファンたちです。 つまり、2_wEiを待ち望み応援する人間、ライブに参加した我々が2_wEiに影響を与えたともいえます。 なので、ストーリーを読んで文脈を理解していれば、ライブに参加して応援している時点で自分たちが当事者という感覚が出ると言えます。 2_wEi、ファン、スタッフたちは共に共犯者関係であり、運命共同体と考えることもできます。

また、名前こそ出しませんでしたが、虎牙優衣という人物の残した言葉についてもMC内で言及されていました。
ここでわざわざ名前を出さないのが良いと思いました。
ライブに来たファンという立場では「虎牙優衣」という存在を知りません。
しかし、ゲームでストーリーを読んだ我々にはその言葉の重みがわかり、より深い感動が得られます。 このようなMCにも2_wEiと秘密を共有している感覚も当事者感に一役買っていると思います。

また、B.A.Cのパートもロールプレイという意味で興味深かったです。 先日のエビストのWebトークショーでアモル役の田中美海さんも「観客の皆さんも信者を演じてくれた」とおっしゃっていました。 つまり、会場の人々は信者を演じたことになります。
確かにあの時あの空間ではB.A.Cのストーリー内で見た敬虔な信者になるプロセスを想起し、観客は暗黙のうちにB.A.C信者を演じていたように思えます。

以上のように、ストーリーに関連した人物のロールプレイを促すようなMCはとても効果的だと感じました。

前章の「Q」でも招待状型チケットを使ったり、ゲストとして屋敷に招かれ役者と共に同じテーブルに着かせたりと、観客に対して役割を与える仕掛けがありました。

問いかけるMC

最後のMCでアルミは観客に「自分の本当にやりたいことは何だ?」と問いかけました。
ここまでファンに強くメッセージを口に出すライブはあまり見ない気がします。
せいぜい「大切な思い出にしてほしい」だとか「明日からも元気に頑張って欲しい」という生きがいの提供について話す程度です。
2_wEiの最後のMCはもはやその域を超えて、ファンの今後の人生にも干渉するようなメッセージを突きつけてきました。
簡単に言うと「全力で生きろ」です。
アンドロイドであるにも関わらず「生きる」ことについてここまで堂々と伝えてくれました。

このメッセージは2_wEiが伝えることに大きな価値があります。
どのようなバックボーンからその言葉が出てきたかを知っているからこそ強いメッセージ性があるのだと思います。

このように観客の今後の生き方を変えようとするメッセージによって、現実に影響を与える感覚がより強くなります。

こういった観客への問いかけは寺山演劇にも頻繁に見られます。
私が初めて観た「奴婢訓」という劇でも観客に話しかける場面があり、現実側への干渉がなされます。

2_wEiライブの見せ方

以上のように挙げた特徴を見ると先述した2つの方法のうち壁を消して意識させない方向性に寄った手法だと思います。
今回のライブは二次元コンテンツの声優ライブを考える上で、到達点と言っても良いほどの没入感のあるライブだったと思います。

今回わざわざ寺山修司を例に出しましたが、ここで述べた2_wEiライブの特徴と寺山作品の特徴を比較してみると共通点が多いのではないでしょうか?
まぁ、寺山修司について語りたく無理やり入れた感が否めませんが、私の頭の中では点と点が線になったので書かずにはいられませんでした。

では8/pLanetはどうなのか?

ここまで2_wEiのライブでの体験をきっかけに色々考えてみましたが、8/pLanetのライブはどういう位置にあたるのでしょうか。

1月に開催された私の初エビストライブの感想はこちらです→ [8 beat Story] 8/pLanet 5thライブ感想

ここまでずっと2_wEiの話をしてきましたが、ここで考えて見たいのはなぜ8/pLanetは2_wEiに比べると没入感の低いライブ形式をを取っているのかということです。 裏を返すと、なぜ2_wEi&B.A.Cのライブは8/pLanetのように演者の顔を出さないのかということです。

8/pLanetのライブも、楽曲中はもちろん徹底してキャラクターの顔を見せてくれます。 ですが、MCになると声優としての挨拶があり、声優として楽曲やライブパフォーマンスに関して感想などを述べます。
このスタイルは多くの競合コンテンツでも採用していますよね。アイマスもそうです。 これは叙事劇という形式、簡単にいうと観客を観察者として理解を委ねる形式に近いのではないか?と思います。 どちらかと言うと先述の壁を乗り越える手法に寄っていると言えるのではないでしょうか。
さっきまでキャラクターを演じていた声優がMCでそのキャラクターの理解を促すような説明だったり感想を述べたりするのは、演劇でいう傍白、コロスに当たると思います。 コロスとは「観客に対して、観賞の助けとなる劇の背景や要約を伝え、劇のテーマについて注釈し、観客がどう劇に反応するのが理想的かを教える」存在です。
(Wikipediaより URL: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%82%B9)

このように2_wEiライブと形式は違えど、観客に判断を迫ったり考えさせたりするという意味では8/pLanetも十分「虚構にぶん殴られる」が実現できていると思います。

それに加え、8/pLanetは2_wEiとは違ってバーチャル空間でライブをする存在なので、それを表現していると捉えることもできます。

(とまぁ書いてみましたが実際は中の人ファンへのサービスという一面が大きいんでしょうかね?)

まとめ

と、こんな感じで2_wEiのライブのことと、二層展開について私の考えを買いてみました。
いやはや、8 beat Storyをやり始めてそんなに経っていないにも関わらず、ここまで全力でコンテンツの素晴らしさに触れることができるとは思いませんでした。
目指しているもの、伝えたいことのために全力を尽くしてくれるよくできたコンテンツだと思います。

色々書きましたが、とにかく8 beat Storyの優れている/他と違うところとして声を大にして言いたいのは「しっかりとしたストーリー」と「その世界と現実をつなぐリアルイベント」の2つによる展開のやり方が上手いことだと思います。 これでも8 beat Storyの魅力の一部でしかないと思いますし、自分自身新参なのでまだまだ深みのあるコンテンツだと思います。
2_wEiも8/pLanetも違った趣向を凝らして展開していますし、これからはB.A.Cという新ユニットの介入によってより世界が広がると思います。
8 beat Storyの今後に期待です。

本当に最後

余談ですが、本記事で途中からいきなり出てきた寺山修司ですが、ついこの前?の5/4が命日です。
もし今も彼が生きていたらどういったことをするのか妄想すると面白いですね。
力石の葬式を開いた彼なら現代の二次元文化にも何か一石を投じるような挑戦をしそうだなぁと思いふけっています。

あと、本当の余談ですが、ライブが楽しみすぎてライブ前日に爪の色が緑になりました。

2_wEiカラー