駐車場の空

金閣寺の看板

私は昔から町の中のしょうもないものを撮るのが好きだ。

しょうもなくないと私は思っているからだ。

これは昔からの癖で、修学旅行で京都へ行った時は金閣寺の前の看板を撮りまくった結果、次の日はカメラのバッテリーが切れて原爆ドームを撮影できなくなる始末。しかし、あの時に撮った金閣寺の看板はデータこそ残っていないものの修学旅行で撮った他のどんな写真よりも心に残っている。 単純に歴史的建造物の持つ価値を心から理解していなかったことで、相対的にどうでもいい物に惹かれていたのかもしれない。とにかく、当時の私は金閣寺そのものよりも金閣寺の看板に心を奪われた。 では、今はどうだろうか。もし今、金閣寺に行けば金閣寺を撮るだろうし、後々記憶に残るのは金閣寺の印象だろう。 今は金閣寺を三島由紀夫の小説(あるいは放火事件)の聖地として捉えている部分があり、そのおかげで金閣寺そのものに対する思い入れがある。 それでもやはり、あの時のあの看板を見ると今でも心惹かれてしまうことだろう。 根底には逆張りの精神が少なからずあるのだろうが、確実に私は「金閣寺の看板」に絶対的価値を見出している。

金閣寺の看板

当時を思い出し同じ画角で撮った看板(おそらく今も残っている)

この看板を見てみると、大きく書かれた「金閣寺」という文字と「駐車場」「参拝入り口」の情報が大胆に配置され、ある種のシュールさを感じる。 その先に歴史的建造物とは思えないほどに遠慮を知らぬ看板だ。 とはいえ、客観的に考えてわざわざ撮影するほどの価値はない。 金閣寺の荘厳な写真が観光地に来た人の「正解」とするならば、必死にこの看板の写真を撮ることは「不正解」あるいは「誤解」と言えるだろう。

これは金閣寺の看板だけの話ではない。 旅先の観光地でも、近所の路地裏でも、なんの変哲もないものに筆舌に尽くしがたい謎の魅力を見出してしまうときがある。
他の例を挙げると、東北を自転車で旅していた時に時に撮ったこの海賊の看板だ。何日も必死に自転車を漕いだ過酷な旅立ったがこの写真が一番心に残っていて、今でもスマホの壁紙にしているほどのお気に入りとなっている。

海賊の看板

田舎の道を走行中に突如これが現れた時の喜びはただならぬものだった。
ザ・海賊って感じの風貌が良い。そのくせ、看板の内容はカラーコピーに関するもので、これもまたシュールだ。愛さずにはいられない。

私のこのありきたりなものを優先する理念の背景には「観光地の写真というものは、多くの人に撮影されているから価値が低い」という考え方がある。 この考え方は観光地やランドマークに対する独占欲的なものが作用している。 場所に対する「この場所を知っているのは私だけだ」「ここの素晴らしさを知っているのは私だけだ」といった感情だ。 先述の逆張り精神に近いものかもしれない。だから、みんなが撮影している観光スポットよりも誰も見向きもしないものに価値を見出しがちなのだ。

実際、有名な観光地についてGoogle検索すれば自分が撮ったものと全く同じ画像がたくさん出てくる。 SNSで場所の名前を検索すれば自分で撮ったものと同じ構図の写真が無数に出てくる。 わざわざ撮影しなくても同じ画像は手に入るのだ。つまり、撮影した画像自体には価値がなく、それに紐づく「撮影したという体験」「画像の持つメタデータ(位置情報、日時など)」が観光地で撮る写真の本質なのではないだろうか。 もちろん、一緒に映る人やシチュエーションによっては撮る価値があるだろうし、写真家が撮るような独自性芸術性の高い写真にはそれ自体に価値がある。

ただ、私はそういった写真よりも先述の看板のような誰もわざわざ撮らない写真に価値を見出してしまう。 我ながら嫌な考え方だが、そういう考えが根底にあるから先述のような看板などを撮ってしまうわけだ。 私がよくゴールデンウィークに車でも電車でもなく自転車で遠くへ行くのは、道端に目を光らせるためだ。

ただ元も子もないことを言うが、今まで挙げた看板等の写真はGoogleストリートビューで見ようと思えば見ることができる。
「なんだ結局お前もググれば出てくるものしか撮っていないじゃないか」
まぁ、否定できない。
ただ、そういった機械的に撮影されたものは画像の数が少ないし、ちゃんとピントが合ってるわけでもない。 そしてなにより、そういった道端を記録としてではなく思い出として撮る人も少ない。 それで十分に独占欲のようなものは満たされる。 厳密には「誰も撮影していない被写体」というより「誰も価値を感じていない被写体」に惹かれるという方が正しいかもしれない。 金閣寺の看板も海賊の看板も、その場所に価値を見出して大切に思っている人はひと握りだろう。 こう自分で想いを書いてみると、以下の3点が撮影してしまうもの条件かもしれない、と気付いた。

  • 誰も価値を見出さないもの
  • 誰も撮影してないもの
  • どこかシュールさがあるもの

本題へ移ろう。

以上のように、私は町中の「何でもない何か」に魅力を感じて撮影するのが好きだ。 その派生で、最近はよく町で見かけるアレを撮影している。

駐車場の「空」の看板

見ての通り駐車場の空き状況が表示される電光掲示板だ。
それも空の表示の時にしか興味がない。
(以降カッコ付きで「空」で書いたものは基本的にこの看板を指すものとする。)

空を見たきっかけ

いつだったか忘れたが、この駐車場の「空」に魅力を感じるきっかけがあった。 それはとある場外馬券売り場(ウインズ)にて馬券を買い、暇を潰していた日のことだった。 その日は賭けた馬がことごとくダメで私は焦っていた。私は最後のレースでその日の損を取り返そうと「当たればプラマイ0になる賭け方」をした。 まさにギャンブルにハマってはいけない人の賭け方だろう。しかし、最後の希望も虚しく外れてしまい何もかも失くしたような気持ちでウインズを出た。

そんな意気消沈の帰り道。 ふと、上を向くと駐車場の空の文字が表示された電光掲示板が目に入った。

(ああ、今の私の財布と同じすっからかんの空だ)

そう思った。

と、同時に私は空という漢字の別の意味を考えていた。 何もそう意気込んだわけではなく、軽い気持ちでダジャレやナゾナゾを思いつく時みたいな感じだ。 最初に思い浮かんだのは仏教的な空だ。 さっきまで賭け事をしていたくせに仏教だなんてふてぶてしいかもしれないが、そう考えてみるとその電光掲示板に底知れぬ意味があるのではないかと思えてきた。 その世俗と脱俗のギャップがなんだか面白く感じた。

仏教的なもの以外にも連鎖的に「空」にその他のイメージを見出してしまい、結果、初めて見た駐車場の「空」は撮影したくなってしまうようになった。

大袈裟かもしれないが、ずっとずっと前から見慣れていたはずの駐車場という光景が、なにもかも変わって見えるような瞬間だった。

空の魅力

なぜ「空」があると撮影してしまうのか。

答えは簡単でその1文字だけで想像が膨らむからだ。

別に「空」に隠された意味などないはずだが、なんだかあるような気がするのでは?という体験が好きと言った方が近い。 難解な映画が好きになってしまう気持ちにも似ている。 映画で言うデイヴィッド・リンチ作品やクリストファー・ノーラン作品を見て、その難解な仕掛けが理解できた時の感動は魅力の一つだろう。 そして、何度も視聴することで新しい視点や発見があるという楽しみもある。
アニメでも意味ありげな道路標識や踏切、あるいは剣や柱が映るシーンで「これは停滞の隠喩だ!」とか「男根のメタファーだ」と勝手に気持ちよくなるオタクくんも多いだろう。

私が競馬で負けた後に駐車場を見て受け取ったものは、それと同じだ。 その作品の世界の住人として隠喩的に散りばめられた演出を目の当たりにしたような感覚だ。 駐車場の「空」の文字はとにかくシンプルなただの一文字の看板かもしれない。しかし、その1文字には海よりも深い意味に溢れている。

そもそもなぜ難解さに魅力を感じるか?というのを考えてみると(またまた先述している言葉だが)独占欲的なものが働いていると考える。 「この仕掛けに気づいたのは私だけだ」という錯覚を一瞬でも得ることができるだけで、その作品と心が通じあったような感覚になる。監督と握手できたような感覚になる。 これはパロディネタでもよく得られる感覚だろう。ただ他作品を引用するのではなく「こんなネタわかるの俺だけだろw」とより多くの人に思わせることがパロディの手腕の見せどころだったりする。

何事もラブレターは自分宛であって欲しいものである。

空の多義性

「空」の看板の何がそこまで想像力を刺激するのか。

空という漢字には様々な意味がある。誰しもすぐにいくつかの意味を脳裏に浮かべることができるだろう。

見上げればそこに広がるskyの方の「空」

箱を開けてみたら何もなかったという「空」

喫茶店に入ったら座れる席があったという「空」

仏教的ないわゆる色即是空で使われる「空」

空戦魔導士候補生の教官の「空」

などなど

たくさんの意味があるが、大元の意味は1つであり、どれも同じ「無いこと」というイメージに基づいている。 そのひとつのイメージから派生して、上記のようにさまざまな意味をもっているわけだ。

これは言語において不便さを生む要因になる。 日本語にやたら多い同音異義語などはなかなか面倒だったりする。 他の同音異義語との衝突を避けるためにわざわざ市立を「いちりつ」と読むなどアホなことをしなくてはならない。「いちりつ」で「一律」という別の同音異義語とぶつかってしまうのもアホっぽい。 しかし、古くから文学において一つの言葉で複数の意味を持つというあいまいさ(あるいは多義性)がイメージをオーバーラップさせるのに一役買っている。俳句や短歌はまさに顕著で、575(77)という極端に短い詩は多義的でないと情報を詰め込むことが難しい。 学校で習った掛詞と言えばわかりやすいだろう。「ながめ」を使って「眺め」と「長雨」の意味を重ねるアレだ。これによって短い文字数で厚みのある内容を付与できるわけだ。 不便だと言ったが、考えてみると同音異義語の多さこそが日本語という趣を支えている大きな要素なのかもしれない。

「日本語」という主語で雑語りしてしまったが、西洋に目を向ければ例えばシェイクスピアのハムレットにあるセリフ「I am too much in the sun」のsunはsonの掛詞となっており、「日を浴びすぎている」と「息子呼ばわりでうんざり」という2つの意味を持たせている。これはダジャレと言ってしまえばそれまでだが、言葉をただその第一義通りに伝えるのではなく、鑑賞者の思考を介してその作品に新たな趣が付与されるというある種の「体験」を与えている。シェイクスピア作品はこういったレトリックがよく見られる。

同音異義語というわけではないが「空」を見た時に広がったイマジネーションには似たものがあった。
もしかすると、私はひょんなことから世界一短く美しい詩(あるいは戯曲)を街の中で見つけたようなものなのかもしれない。
では、その美しい詩が、私の頭の中でどのように連想され、心揺さぶったか掘り下げていこう。

空と仏教

空とは

最初に「空」で連想したのは仏教的な意味だ。

単なる空きがあることを示す意味をそのまま受け取っていたら先述の多義性の話にあるとおり、ここまで「空」に対する想いはなかっただろう。 しかし、単純に他の意味があるから好きというわけではなく「仏教的」という点が肝である。

日常的で機械的な、そしてどちらかというと俗っぽいものである駐車場という場所を、あたかも人生の本質的なものが秘められているような宗教的な場所として認識できるというギャップが面白いのだ。 別に私は仏教に明るくないが、「空」という漢字が単純な「非実在」という意味ではなく、なんだか深い意味があるということは知っている。 「空」の持つ仏教的な意味について、辞書の言葉をそのまま持ってくると以下の通りだ。

《(梵)śūnyaの訳。うつろであること、ない、の意》仏語。すべての事物はみな因縁によってできた仮の姿で、永久不変の実体や自我などはないということhttps://dictionary.goo.ne.jp/word/空_(くう)/

空という文字は般若心経の中にも多く登場する。よく耳にするのは「色即是空」だろう。 今までなんとなく聞き流していたが、これを機に色即是空の意味くらいちょっくら調べてみよう。

すなわち、目に見えるもの、形づくられたもの(色)は、実体として存在せずに時々刻々と変化しているものであり、不変なる実体は存在しない(空)。仏教の根本的考えは因果性(縁起)であり、その原因(因果)が失われれば、たちまち現象(色)は消え去る。 色即是空 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/色即是空

難しくて理解が追いつかないが、どうやらこの世界のすべては空だそうだ。 つまり、あらゆるものには固定的な実体がないということのようだ。 では、何を持ってその存在が定義されるかというと「縁起」らしい。
縁起とはおみくじ引いた時に言う「縁起がいいな」のヤツの縁起とは意味が違って、どちらかというと「つながり」「関係」「因縁」といった意味が近い。

私はこれを知った時、なんだか四原因論っぽいなとかオブジェクト指向プログラミングっぽいなとか思った。 おそらく違う概念なのだろうが、難しいものを何かに例えることは理解の一助となるだろう。

俺が思うに例えば空は

ということで、一般的な例え話を調べてみると、ドーナツの穴の例えが見つかった。

ドーナツの存在が、ドーナツの穴という空間を生み出し、その外と同じであった空間に、「ドーナツの穴」という属性を付与する。つまり、ドーナツとの縁起的関係によって、ドーナツの穴は存在する、ということです。しかしこのドーナツの穴は、ドーナツがあるかぎり確かに存在するわけですが、先にも書きましたように、「この空間こそがドーナツの穴だ」と断定できる空間はありません。ドーナツを動かせば、その穴も移動し、別の空間がドーナツの穴となる。つまりドーナツの穴は、常に変化する無常の存在であり、また特定できる空間のない、無我の存在ということができるのではないでしょうか。

ドーナツの穴 その2 | 彼岸寺 https://higan.net/column/2015/05/donuthole/

これでなんとなく仏教的な空という言葉の意味が掴めてきたかもしれない。 この世のあらゆるものはドーナツの穴のようにそのものは「空っぽ」であり、他のものとの関係性によって定義されるということだろう。

難しい話はこれくらいにして始めの話に戻ると、こういった仏教の重要な教えが街中に現れるというギャップ、意外性に私は惹かれた。 街中に無数に存在するであろう駐車場に「空」が書かれているというだけで、なんだかわくわくする。 そう考えてみると、大都会東京は親密に仏教と共生している街と言っても過言では…いや、ちょっと過言だが、そう感じさせる魅力を私は駐車場の「空」から見出したのだ。
アニメや映画でちょっとした演出を深読みして勝手に勘違いして、勝手に感動して、勝手に名作だと思い込むようなものに近い。 勝手に東京を仏教都市と勘違いして勝手に感動してもバチは当たらんだろう。

加えて、たまに駐車場で見かける「空あり」や「空有」という表示、これはこれで「ない」が「ある」という表現が自然に使われていて興味深い。
(ここで「空あり」の写真を載せるつもりだったが見つからなかったのでイメージしたものをコラージュしました)

空ありのイメージ

そこに何もないがあることを空ありと書くこと、それ自体が日本人が無意識に仏教的な空を無意識に理解している証拠なのではないか?という突飛な考えさえ浮かんでしまう。

今までは「空」のみの写真ばかり撮ってきたが、これからは「空あり」の写真もちゃんと残そうと思う。 街で何気なく見つけて、ただ単に「空あり」を「あきあり」と読めばなんてことないが、「くうあり」と頭の中で読むだけで深い意味を見いだせる。

みなさんは「空あり」をどっちで読んでいただろうか?

余談

この記事を書くにあたっていろいろ調べていたら、なんとあの「みうらじゅん」氏が同じことをやっていた。 申し訳ないことに彼の作品やタモリ倶楽部等のメディアに触れてきていなかったので知らなかった。 どうやら般若心経に出てくる漢字を外で探すという遊びをやっているとのこと。 それはもうびっくりした。 世の中、変わったことをやったつもりで実は既にやられているという話はよく聞くが、思いがけずその事象に出会ってしまったようだ。 他の人も同じことをやってるとわかると、この行為に対する希少さが薄れてしまって知らなければよかったなと少しだけ萎えてしまう。 まぁ、著名人と同じ思考を持ったという意味では自信を持って良いのかもしれない。 勝手に観光協会ってのも自分が過去にやっていたことと近かったので、もしかしたら私はみうらじゅん氏と気が合うのかもしれない。

みうらじゅんが「アウトドア般若心経」を始めたきっかけは井上陽水の声だった

さて、唯一無二であろう趣味が既出だったことを知ったところで「空」の別の魅力を見ていこう。

空(そら)、そして芸術

札付きの空

駐車場の「空」を見た時に連想先としてskyの方の空(そら)は誰しも想像するだろう。 このありきたりとも言える連想もまた、私の心を大きく動かした。 しかし、skyを意味する文字が書かれていたから感動したという単純な話ではない。 私はこの文字としての空と実際の空を紐づけて考えていた。 それによって駐車場の空に大きな役割を持つと思えるようになった。

その役割とは 「ラベル」あるいは「タイトル」 である

駐車場というものは、大概屋外にあるものである。 つまり、多くの「空」は常に自然の本物の空(そら)と共にある。 これを私は空に対するラベルとして認識したわけだ。 私は「空」を見る度に写真を撮ると述べていたが、この時にはできるだけ空が映るようにしている。 それは「空」を空のラベルとしての役割を持たせるためだ。

例として以下の写真を見ていただきたい。

空と空

結局はこれを見て感動するかしないかの話なのだが、要するに駐車場の空き状態を示すはずの「空」が空を示す名札として機能しているのが非常におもしろい。

会社員が名札をぶら下げているように、一軒家に家主の表札があるように、空という存在にもラベルがあっていいはずだ。
空も嘆いていることだろう。
もっとも多くの人が目にする自然たる空に名札がないのだろう、と。
悲しむ必要はない、日本には山ほど空の表札が用意されている。

田舎には自然が溢れていて都会は自然がないというが、その地域の発達具合に関わらず空は等しくそこにある。 むしろ都会には駐車場の「空」が多くあるという点で、田舎よりも空を鑑賞するまでの導線に富んでいるのではなかろうか。

路地裏の名画

私は「空」を見かける度に天空を鑑賞し、さらに認識を拡張していき、最終的に行き着いた考えがある。 それは「空」を単なるラベルとして捉えるのではなく、芸術作品に付くタイトルとして捉えるというものだ。 美術館で名画の下にタイトルがあるように、空というもっとも大きな自然の下にもタイトルがあれば、それは偉大なる芸術作品だろう。

事実、空を描いた芸術は山ほどある。

背景として描かれることもあれば、空そのものが主人公の作品もある。 あまり西洋画には詳しくないが、ルネサンスあたりまではあくまで風景というものは背後にある脇役で、17世紀あたりのオランダで風景画というジャンルが確立された認識だ。 みなさんも風車が描かれた風景画のイメージがあるだろう。 そして、勝手なイメージだが、空の美しい表現は印象派が多いイメージがある。 印象派に影響を与えたブーダンの絵画はカンバスの大半を空が占めるようなものが多く、「空の王者」とも呼ばれていたらしい(つまりリオレウス)。 その後も有名どころだとモネやシスレーの作品など美しい空が主役の絵画は多く生まれている。

話を戻して「空」も同様な芸術作品として見ることができるだろうか。 当然駐車場の「空」は芸術家が描いた絵でも岩から削った彫刻でもない。 しかし、コンセプチュアル・アートの元祖であるデュシャンも便器にサインを書いたわけだから、駐車場の看板と空を芸術作品として鑑賞する見方もあるはずだ。

そもそも空そのものを芸術にすることは別に新しいことではない。 金沢21世紀美術館の「ブルー・プラネット・スカイ」は建物の屋根の部分をガラス張りにして空を鑑賞対象としている。いわば、窓で空を切り取り縁取った絵画だ。

同じく金沢21世紀美術館の「雲を測る男」も屋外に展示される前提で、タイトル通り雲を測る男と実際の空が融合した作品となっている。 作品である以上、人の手によって作られたものであるべきという考えもあるだろう。あらゆる作品は人が手をかけてものとそれ以外の境界線があるはずだ。 「ブルー・プラネット・スカイ」は建築物の一部に手を加え、空を切り取るという形で手を加えている。

「雲を測る男」も本体は銅像であるため無論人の手によって作られた作品と言える。 対して「空」という作品は、駐車場の「空」というラベルが見える場所という限定があり、そこから見える空というものを切り取ったとも言える。 街の中の駐車場なら周りの高いビルで空は切り取られるし、田舎の駐車場だとしても低い家や山、木々によって空は切り取られる。 木や石を削って彫刻ができるように、人の手によって空を削れば立派な作品だ。 デュシャンの例もあるが、既成(レディ・メイド)の工業製品が現代芸術作品となっているのも珍しくない。 日常の道具を茶道の道具に見立てた千利休のように「看板と空」を作品として見立てても問題なかろう。

そしてなにより、この作品には「空」というタイトルが付いている。鑑賞に値する立派な作品だ。

1文字の持つ力

雲字

ここでもう一つ駐車場の「空」を見て浮かべたイメージがある。

それは神棚である。

神棚の上に雲の文字が書かれた半紙や板が貼られているのを見たことがあるだろうか。

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雲字

ここに書かれる文字は1種類ではなく「空」「雲」「天」などがある。 正しい名称は「雲字」や「雲板」というらしい。 これは「神様のいる神棚より上の存在はありません」という意味合いで貼られるものだ。 神棚というのはその名の通り神を祀るための棚であり、日々拝むための場所だ。 そういった神聖な場所ではあるが、2階建て以上の家だと位置的に1階にある神棚の上に人が立つ可能性もある。 神様の上に立つというけしからんという状態を避けるために、雲字を設置して敬意を表明する意味があるのだろう。 おそらく「雲」が一番メジャーなのではないだろうか。要は天にある存在が書かれていればよいのだろう。

翻って、駐車場にも空の字があるわけだから、何かしらの神に対する敬意を表していると見ることができる。 思えば都会は背の高いビルたちがひしめき、相対的に高さがない寺社仏閣はちっぽけな存在となってしまう。 真上というわけではないが、人々は鳥居より高い位置を平気な顔をして歩いている。 神への敬意を維持するためには、街がデカくなれば雲字もデカく、ビルが増えれば雲字も増えるべきではないだろうか。
どうやら、街には雲字が足りていないのかもしれない。

その点、駐車場の「空」はその存在自体が寺社仏閣の神聖さを高める一助になっていると考えるとなんだかとても大切なものに思えてくる。 雲字もたった一文字だが、大きな役割があるからこそ今も残っているわけだ。 「空」にもそれくらいの役割を与えてもいいのではないだろうか。

余談

勝手な持論だが、日本では言葉を漢字一文字に省略し、漢字一文字に圧縮することをしがちだと思う。 これは漢字が表意文字であることが大きいだろう。先述のように「空」にはベースとなるイメージがあり、私はそこから想像をふくらませた。 「今年の漢字」なんてものが毎年発表され話題になるのも、きっと1文字の漢字に深い想いを乗せられることを皆が知っているからだろう。 国の名前まで漢字で「亜米利加」てな感じで当て字にする時点でヘンテコだが、それを省略して「米」と漢字1文字に省略してしまうのも改めて考えると異常だ。 おかげで漫画「キン肉マン」の超人たちの額に漢字でそのキャラクターたちのアイデンティティーの確立に一役買っている。 そう考えると「魁!!男塾」に登場する雷電は額に「大往生」と3文字も書いてしまうあたり、かなり大胆で異常なキャラ付けだろう。

駐車場で見かける文字たち

駐車場で目にした文字の話をする上で「空」だけを語るのは不公平だろう。 世の「駐車場にある文字オタク」からの指摘を避けるためにも広い視野で他の文字についても見てみるべきだ。 そして、「空」に感動した当時の私は別の文字も視界に入ったわけで、それらを差し置いてなぜ「空」に惹かれたか浮き彫りになるかもしれない。
では、駐車場にどういう文字があるか思い出してみよう。

日中の駐車場は「空」より「満」の方が見かけるかもしれない。 ただ「満」は「空」ほどイマジネーションが広がる漢字ではないと考える。 人によっては「空」よりも魅力的な1文字なのかもしれないが、少なくとも私は「満」を見つけても撮影しようとは思わない。

まず「満」の意味は「みちている」ことがベースとなっている。 そこから「すべて、全体」や「ゆたか」といった意味が連想される。 確かに辞書に載っている意味の数自体は「空」とそう変わらないかもしれない。 しかし、空のそれぞれの意味と比べてみると、満の意味はどれもあまり飛躍しきれていないように思える。 もう少し飛躍した意味を持ってくれたら私も興味を持ったかもしれない。 例えば、満ちていることから「海や湖」や「現状に満足して停滞している様」「命が満ちる=死ぬ」くらいの飛躍があっても面白い。

そして何より、この「満」の看板を見るであろう人たちはだいたい駐車スペースを探しているため、満という文字を見ることにうんざりしていることだろう。 そういう意味で「空」よりもあまり良いイメージがないのではないだろうか。 あまり言うと「満」が名前に入っている人を傷つけそうなのでこれくらいにしよう(もちろんそんな意図はない)。

P

「満」よりも見かける駐車場にある文字として「P」がある。

この文字は難しい。

あまりにも抽象的で、全く違う意味をいくらでも想起することができるからだ。 もちろんParkingの頭文字を取っているわけだが、それ以外の意味を考えようとすると、Pから始まるあらゆる言葉にイメージが紐づいてしまう。 街で見かけるPが、プロデューサーなのかリンなのか圧力なのか素数なのか、はたまたダンテの額に刻まれた罪(peccato)を表すPの字なのか…意味は無秩序に広がってゆく。 その無秩序に広がる意味から何かをこじつけるのもまた一興だ。 しかし、定説となる読み取り方や基本的なイメージがなければ、それはシンボルとして読み取りにくい。

「あいまい」と「多義的」は区別しなければならない。
どの漢字かにもよるが、たったの一文字にちゃんと対応するシニフィエ(指示対象となる概念)が存在するということはシンボル/記号として優れている。 その点「空」は「無いこと」が基本のイメージとしてある。 そこを起点に色んな意味が生やされているので無秩序な意味の広がりが生まれにくい。 この点が漢字の「多義性」と「一意的」のバランスがシンボルとしてアルファベットより優れている点ではないかと思う。 アニメや映画で、よく意味深なシンボルやアイテムが登場して「このシンボルは聖書では〇〇で…」とか「これの花言葉は〇〇で…」という考察ができることが多い。 作品を読み解く上でこういった考えを巡らせることは大切だが、最終的な結論は結局ところ深く考える前と同じだったりする。 これは単なる持論なのだが、優れたシンボルは第一印象あるいは元の意味からそう離れるものではないと考える。 隠喩を読み取るか否かで受け取るメッセージが正反対になるのは単純に不親切だし、第一印象の持つ力を利用できていないのももったいない。 とはいえ「爽快な印象があるシーンがよく考察してみると不穏な隠喩が敷き詰められている」というミスマッチを意図的に作る場合もある。 そして、どこまでの知識を前提とするかによって第一印象というものも変わってくる。 「林檎」から「知恵の実」や「原罪」を連想させるのはよくある隠喩だが、果たしてそういったイメージが第一印象で得られるものなのか否かは前提とする知識次第であって、何をよしとするかは難しい。 西洋絵画の鑑賞にアトリビュートの知識が求められるように、作品や媒体によって必要な前提知識は異なる。 もしかしたら英語圏の人など、つまり我々と別の前提知識がある人が見れば「P」の文字も魅力的なのかもしれない。 実は「P」を見ると撮影してしまうという内容の英語ブログがあるのかもしれない。

優れた隠喩とはなんなのか考え始めたら難しすぎるのでこれくらいで終わらせよう。 とにかく「P」より「空」の方がシンボルとして優れているように感じるということだけ伝えたい。

こういった一文字の漢字をシンボルとして受け取りイメージを広げられるのは駐車場や雲字に限った話ではない。 街を歩いてみると意外に一文字の看板やマークを見かけるだろう。 それが必ずしも刺激的なものとは限らないが、一度着目してみるのも面白い。 ただ「空」ほどに想像を掻き立てるのにちょうどいい文字は街を見回してもなかなか無いのではないだろうか。

海外の駐車場事情

他国のスタンダード

日本前提でここまで書いてきたが、海外の駐車場はどういう表示になっているのだろうか。なんだか気になってくる。 当たり前だが漢字が使われていない地域では「空」という文字は見られないだろうし、代わりに何が表示されているのかが気になる。 逆に漢字を使用している地域では日本と同じような表示をしているのか、これもまた非常に気になるところである。 適当に検索してみたところ下のようなWebページを見つけた。どうやら駐車場の標識について情報が載っているようだ。

Digital Guidance Signs

海外の駐車場の電光掲示板の会社

四川停车设备:停车场入口空位显示屏TH2

中国の駐車場の電光掲示板の会社

サンプル数としては2つなのであまり参考にならないかもしれないが、空きがある場合は空車の数を、ない場合はFULLと表示する形式になっている。 確かにそちらの方が情報量としては多いので機能面で優れているだろう。 よくよく考えると「空」という複雑な文字が出せるなら空き台数の表示もできるはずな気もする。 実際、日本の電光掲示板の機能的にどうなのだろうか。 やろうと思えば空き台数を表示できるけど、パッと見た時のわかりやすさを優先して「空」を出しているのかもしれない。
しかし、よく見てみるとわかるが、多くの電光掲示板は満と空とPの文字を出すためだけのドットが配置されており他の文字は自由に表示できないようになっている。 そのため、もし日本でも空き台数を表示できるような駐車場を増やすとなるとソフトウェア的な変更だけでなく電光掲示板側の変更も必要になるというわけだ。
やはり、日本の駐車場は特殊なのだろうか。

「空」探しの旅

2つの会社のWebページ情報だけでは実際の駐車場について何もわからないので、ちょっくら海外に旅行してみよう。 便利なことに家にいながらでもGoogleマップ ストリートビューを使えば(だいたい)行きたいところに行ける。

まずはフランスから行ってみよう。これはただ単にフランスの名所をついでに観光したかっただけってのもある。 さて、フランスのパリあたりで「parking」とかそれっぽいワードで検索してストレートビューしてみる。 いくつか見つけたは見つけたが、路肩にパーキングメーターがついているタイプの駐車場がほとんどだ。 そして、やっと見つけた駐車場に書いてあった文字は「ouvert」という単語。 フランス語で「店が開いている」という表現に近い。英語で言うと「open」だろう。 空とは似ているが、空きがあるという表現とはまた違う興味深い電光掲示板だ。

「ouvert」の文字1 (ストリートビュー)

「ouvert」の文字2 (ストリートビュー)

以下の駐車場は24/24と電光掲示板に表示されていた。 24時間営業であることを示しているっぽい。わざわざ光らせる必要はあるのだろうか。 24台分の駐車スペースがあってそのうち24台すべてが埋まっていると捉えることもできるが、24という数字的に営業時間を表している可能性の方が高いだろう。

24/24の表示(ストリートビュー) 

次にバンコクで見つけたこの電光掲示板。 この文字についてはおそらく現地の言語なのだろうか。点字のように見えるが詳しい人がいたら教えてほしいものだ。 それかカメラで撮影すると一部のドットが飛んでるように記録される的な現象かもしれない。 いずれにせよ、ドットの数から考えるに「空」の字は表示していないだろう。

バンコクの駐車場 ストリートビュー

続いては肝心の漢字圏である中国へ向かおう。 ただ中国ではストリートビューが使えない。 仕方がないので、中国の検索サイトで画像検索して駐車場に関する情報がないか調べることにした。 結果としては、空いていることを空という漢字を使って表現してはいるが、あくまで「空位」?という空を含む文章であって、日本のように「空」という一文字で表現はしていないように見える。

baidu経由で見つけた画像

baiduの画像検索結果

ただ台湾ならストリートビューが使えたので駐車場を探してみた。 ここも漢字圏なのだから「空」に期待をせざるを得ない。 しかし、他の国と同じように「parking」で検索してみてもPという文字が主流で空き台数の表示がある程度だった。 電光掲示板の表示もどうやらバンコクと同じようにストリートビューだと綺麗に表示されないものもあったが、少なくとも「空」の表示はないように見える。

台湾の駐車場1

台湾の駐車場2

なかなか目当てのものが見つからず、画面越しの旅行もそろそろ引き上げようとした矢先、ついに台湾で驚きの電光掲示板を発見した。

「満」である。

満の電光掲示板

なんと見慣れた表示だろうか。駐車場の空きがないことを「満」の1字で表現している!

日本と完全に同じではないか!!!

こうなってくると空きがある場合はどのような表示になるのか気になる。
いや、気になるなんてものではない。

もし「空」があればその場で台湾旅行が決定するほどの大事件である。

これまた便利なことにストリートビューでは過去に撮影された別の写真を遡って表示させることができる。

さっそく別の時間帯の写真を見てみると

別の時間帯の駐車場

「P」である。

だめだったか〜〜〜〜

というわけで、結果としてはどれだけ探してみても「空」の文字は見つけることはできなかった。

体感として海外の駐車場は日本に比べると路肩に駐車スペースがあることが多い印象で、なかなか電光掲示板のあるタイプの駐車場は見つからなかった。

私の探し方が悪いのかもしれないが、一応「parking」という名前で検索して出てくるポイントを虱潰しにしていたのでそんなに間違っていないとは思う。 とはいえ私ひとりがネットで調べた程度なので、もしこの記事をご覧の方の中で興味深い情報を持っている方がいたら是非とも提供していただきたいものだ。

とりあえず私が調べた範囲では、日本の駐車場にある電光掲示板が特殊であることがわかった。

「空」の看板こそが日本人のアイデンティティーであり生活に息づく仏教であり文学であり芸術であり聖域なのかもしれない。 海外と比較することで、この「空」は日本特有のものであることを再認識して、なんだか前よりも「空」が好きになった気がする。

海外から見た日本の「空」とその未来

思えば「空」だけで空き状況を表現している駐車場はどれも英語や他の言語での補足がされていない。 これは不親切で、日本語に疎い外国人には辛いものだろう。 海外から日本に来る立場で考えてみると、空き駐車場を探す上でよくわからない異国の文字を探し回らないといけないということになる。 実際、海外の記事では日本へ行く観光客向けのTips的な感じで「空という文字を探せ!」みたいな紹介があってなんだか面白い。 海外の日本旅行に関する情報サイト

先述の海外の駐車場事情にもあるとおり、世界的に見れば「P」の字と「空き台数」の表示がある駐車場がスタンダードになっている。 当たり前だが「空」と「満」に比べれば、それは多くの人にとってわかりやすいものだ。 仕方ないことだが、日本のグローバル化がさらに進めば、この日本の宝である「空」が失われるかもしれない。 これは今まで通った道であり、時代の移り変わりにつれてあらゆるものは親切さを優先され、見慣れた風景から変わってしまうものだ。 それでも令和の今、変わらず残っている「空」という風景を私は賞賛したい。 同時に、いつか「空」が見られなくなる日の覚悟も持っている。 それまでの間、少しでも多くの「空」を拝みたいものだ。

また、今回は紹介できなかったが国土交通省の駐車場に関する資料が興味深かったので共有しておく。 私自信まだちゃんと読めていないのだが、読めば日本の駐車場事情に詳しくなれることだろう。 これまでの駐車場施策と今後のあり方について

街と文字、そして目に映るすべてのもの

長々と「空」を紹介させてもらったが、これっぽっちも魅力が伝わってない方もいるだろう。 人によって感動するものは異なる。だからこそ私は「空」にある種の独占欲(あるいは逆張り)的な惹かれ方をしたのだ。 むしろ、この記事を読んだ程度で「空」の魅力に気づかないで欲しいくらいだ(情緒不安定)

この記事の最終的なメッセージは「空」の魅力に気付いて欲しいということではない。 冒頭であったように例えば旅の中で、自分だけ気付いた面白いものや美しいものに気づいて独り占めして欲しいということだ。 つまり、これは「空」だけの話ではなく、ひとりひとりが新しく「何か」を見出した方が感動できるものだということだ。

例えば「空」以外にも「架空線」というものも私は大好きだ。

架空線注意

街の中には電柱と電柱の間に電線が張り巡らされているところがあるが、場所によっては事故防止のため電線に注意を促す必要がある。 そんな場所にあるのが「架空線注意」のような標識あるいは旗だ。 空に架かっている線だから架空線。しかし、これを架空(フィクション)の線と読みたくなるものだ。 これもまたなんの変哲もない日常からフィクションあるいはバーチャルなものが現れるというギャップが面白い。 路地を歩いていると目に入るVirtual Wire - バーチャルワイヤー - にサイバーパンクな魅力を見出す人もいることだろう。 それとも、どこかの童話めいたホラ吹きおやじが「ここに線がある」と言い張り続けた結果生まれた存在しない電線への注意なのかもしれない。 そこで生まれた物語は紛れもなく自分のもので、代えの効かないものだ。 ストリートビューのどこを見てもそんな物語は書かれていない。 外へ出れば何かを勘違いして勝手に物語が生まれる、そして自分だけの何かを得ることができる。

「空」が一例なだけであって、意外と周りにはそれに類するものにあふれている。

そして、この考えをさらに拡大すれば映画やアニメなどの作品を見る時のスタンスに通ずる。 金閣寺に来たら金閣寺の写真を撮るように、作品を見たら受け取るべき「正解」の解釈や見どころがある。 難解な作品を見た後によくわかないまま考察サイトを覗いて正解に辿り着いた人も多いだろう。私も経験がある。 その行為自体は否定しないし、何も読み取れず一人逡巡するくらいならむしろやるべき行為だと思う。 ただ私は作品外の情報で感動した時に「これは作品から読み取ったものなのだろうか…」と考えてしまう。 他人が言った「ここが良い」をそのまま真に受けて自分の中で咀嚼せずに「良い」とすることは「作品を見ずに悪いと主張する」こととそう変わらないのではないかとも思ってしまう。 もちろんそんなことはなく、他人から得た感想や考察を読むこと含めてその作品に関する体験であり、自身の視聴体験と合わせてその「作品から得た体験」と言うこともできる。 それはそれとして、どんなに理路整然とした正解よりもたった1つの不正解が自分の中でかけがえのないものになることがある。 具体的な話を挙げると、私は映画「キングスマン: ファーストエージェント」のラストバトルで映写されたスクリーンを破壊したシーンにメタ的なメッセージを感じたり、ターミネーター3のコンビニ万引きシーンにターミネーターの本質を見出したり、ロッキー・ホラー・ショーの互いに名前を呼び合うシーンで死ぬほど大笑いしたり。 どれも少しズレた受け取り方かもしれない。 しかし、強く印象に残っていることは確かだ。 道端で見つけた変な看板と同じように時にこういった体験は強く心に刻み込まれる。 なんの変哲もない町を歩き「空」を見出すように、作品の中の些細なものを見出して楽しむことも悪くない。

長々と書いたが「正解もいいけど、勇気を持って不正解してみよう」というだけである。

それを人は誤読というかもしれないし、実際誤読だろう。 私も「さらざんまい」の最終話に明らかに誤った解釈がTwitter上で広まっていたのを見て、かなりひりついた記憶がある。 明らかに間違っているのに「となりのトトロさつきめい死亡説」のような都市伝説めいた解釈が幅を利かすのは確かに不快極まりない。 しかし、今思い返してみれば、そういった不正解も「金閣寺の看板を撮影する」のと一緒だと思えばなんだか許せるような気がする。 この許容は「ただ衝突を避けたいだけの寛容という名の妥協」と言えるかもしれない。 ただ言えるのは、「自分で見つけたもの」を大切にしようということであって、それが「正解」であれ「不正解」であれ、その本人の中でのかけがえのないものである。

重要なのは「正解」「不正解」関係なく、自身で回答を出したものであり他者の受け売りではないということだ。 しかし、それでもやっぱり、難解なものを見ると人の解釈というものを参考にしていしまうものだ。 先述の通り、いわゆる考察サイトというものをどうしても見てしまう。 観光地に解説パンフレットが置かれていると思えば、考察サイトを見ることも悪くないだろう。 そこに「正解」が書いてあるし、実際その情報のおかげでより作品を楽しむことができる。 その行為と「受け売り」の違いが何なのか、それは作品そのものと向き合っているかかどうかだと思う。 だが、その境界線が具体的にどこなのか今の私は結論が出せていない。
なんだか考えが右往左往して、断定的な結論が言えない。

だからこそもう一度、次は自戒の意味を込めて、

私には正解が何かわからないが、

金閣寺に来て金閣寺の看板を撮るように、

駐車場の「空」を撮るように、

たまには、「不正解してみよう

では、さようなら👋

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