ケーキを袋に入れたくて

はじめに

日頃、何か疑問に感じても、言いたいことを飲み込んでしまうことはありますか? 私はまさにそのタイプです。 言いたいことを飲み込み、後で一人反省会を開き、それを「黒歴史」という名のラベルを貼って脳の奥底にしまいこんでしまう。そんなことの繰り返しです。

先日も、近所の洋菓子店でそんな経験をしました。 そこは古くから営業されている、ショーケースに華やかなケーキが並ぶ素敵なお店。カヌレやマカロンも絶品で、今までも何度か利用しているお気に入りのお店でした。

その日も、いくつかのケーキを選び、店員さんに告げました。対応してくれたのは、以前も接客してくれた優しそうなおばあさん。丁寧な手つきでケーキを箱に詰めてくれます。 しかし、平和なやり取りは、ある一言で一変しました。

30円を巡る攻防

その店員さんに「紙袋はご利用になりますか?」と尋ねられました。

箱のまま持ち帰るのも味気ないですし、不安定です。私は「はい、お願いします」と即答しました。 すると、おばあさんはまた「紙袋で、本当によろしいですか?」と念押しをしてきました。

(えっ、そんなに念を押すこと……?)

私は少し戸惑いながらも意見を変えず「お願いします」と答えました。 しかし、追い打ちがかかります。

「あの、紙袋は30円になりますけど、それでもよろしいですか?」

こう何度も聞かれてしまうと、私の脆弱な精神力では簡単に揺らいでしまいます。 30円なら要らないかな……という気持ちも一瞬よぎりました。 しかし、ここで引き下がると、30円ごときで利便性を諦めた「軟弱な消費者」として敗北を認めるような気がしてしまったのです。

「はい、お願いします! 大丈夫です!」

ここでは私の頑固な一面が出てしまいました。 別に30円で人の価値が決まるわけでもないのに。 脳内で「30円」と「己のプライド」を天秤に掛けてしまった時点で、私の自意識はすでに泥沼に足を踏み入れていたのでした。

店員さんは私の返事を聞き入れ、ケーキを箱詰めし始めました。

紙袋の行方

これだけ念押しをされたのです。当然、私は「箱が紙袋に入った状態」で手渡されることを確信していました。

しかし、会計が終わって差し出されたのは、紛れもない「ケーキの箱」そのものでした。 箱単体です。 脳内には大量の疑問符(?)が発生しました。 あれだけ「紙袋」「30円」と確認されたのに、なぜ私の手元には全裸に近い状態のケーキ箱しかないのか。

そこで私は、店員さんに

「え? 袋は?あの、すみません袋買ったので袋に入れてもらえますか?」

と、思いました

言うことができなかったのです。

一瞬のうちに、私の頭の中では無数の仮説が乱立しました。

  • 「これは最新技術によって、袋と一体化した箱なのかもしれない」
  • 「このお店では『袋を無しにする権利』に対して30円かかる、逆・有料化システムなのかもしれない」
  • 「私の視力が低下しているだけで、よく目を凝らせば袋に入っているのが見えるのかもしれない」

普通の人であれば、「あの、袋は……?」と素直に口に出せるのでしょう。 しかし、私にはそのような度量がありません。 店員さんの、一点の曇りもない、一切悪びれる様子のない笑顔を前に、私はただ固まることしかできませんでした。 店員さんが間違っている、と指摘することすら、私には許されない気がしてしまったのです。

店から出る瞬間、最後のチャンスがあるとすれば今だと思いました。

そこで私は

「あの、すみません、袋お願いしたと思うんですけど……」

と、思いました

悲しいことにこの世界は「思う」だけでは何も変わらないのです。 やれ思いのこもったプレゼントだの、思いのこもった創作だの言いますが、それらの本質は思いではなく、思いを「伝える」ことにあります。 どう思うかではなく、どう伝えたかだけが、現実を動かすのです。 しかし、私には「伝える」ことができませんでした。

思うだけの帰り道

結局、何も言えないまま、ケーキの箱を両手に抱え、店を後にしました。

店を出た瞬間に冷静さを取り戻し、やはり袋がないのは客観的におかしいと気づくのですが、「今さら戻って袋をねだる」という行為は、先ほど見せた「30円なんて余裕ですよ」というブラフを自ら破壊する行為です。 「袋くらい、もういいや」と思って、そのまま帰路につきました。

周囲から見れば、私は「美味しそうなケーキの箱を抱えて家路を急ぐ、幸せに満ちた人」に見えたかもしれません。 しかし、私にとっては、自身の性格の欠陥をまざまざと見せつけられた「一大事件」の真っ只中でした。

私は、紙袋が必要かどうかすら自分で決められない。 目の前の店員さんに、たった一言「袋を忘れていませんか」と告げる勇気すらない。 なんて自分は情けないのだろうと、帰り道で何度も自分を責めました。

しかし、今こうやってブログを書いてみると「思う」ことが唯一の救いだったのかもしれないとも思います。 もし、あの時「思う」ことすらできなかったら、私は完全に「無」の状態になっていたかもしれません。「思う」ことができたからこそ、私は自分の中でこの出来事を消化し、ブログに書くことができているのかもしれません。 あの時、私の喉元まで出かかった言葉は、エンターキーが押されないまま溜め込まれ、今こうしてやっとエンターキーを押すことができたのかもしれません。 結局、人間は思ったことしか伝えられません。ただ、それをどのタイミングで、どの強度で外に放り出すか。

人生のどのタイミングでエンターキーを押すか。そのコンマ数秒の遅延が、私の人生を大きく左右しているのかもしれません。

おわりに

結局、その日食べたケーキがどんな味だったのか、あまり覚えていません。 ただ、ケーキの箱を抱えた時の指先の不安定な感覚と、店員さんのあの慈愛に満ちた笑顔だけが、今も脳裏に焼き付いています。

世の中には正しいタイミングで伝えることができる人がいます。 でも、私のようにどうしても伝えられずに勝手に一人で思い悩んでしまう人もいるのではないでしょうか。 そんな時には

「まぁ、思っただけの日があってもいいか」

そんな風に自分を許して、いつか来るであろう「伝える」チャンスに備えるのも、悪くないのかもしれません。

では、さようなら 👋

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