秘密のおじさん -天おじ編-
5000文字くらいあるので、面倒だと思ったら今のうちに引き返して欲しい。 最近インターネットで知った興味深い人物について語るだけの記事なので、あまり期待はしないで欲しい。
まず、みなさんはおじさん構文を知っているだろうか? 独特の絵文字や語尾が特徴的なアレである。ナンチャッテ(^_^;)
おじさん的な文章が定型化されるほど、おじさんの話法は公のものになってしまったのだ。 みなさんも文章から醸し出される雰囲気で「この人おじさんだな」っていうのはわかりますよね。 しかし、おじさんというものはこういった定型なものばかりではない。 特殊なおじさんも存在する。
私はここ1年以上の間、インターネット上で見守っているおじさんがいる。 今回の記事はまるごとそのおじさんに関するお気持ち長文である。
一般的なおじさん像
人は生きている中でおじさんに出会うだろう。 いいおじさん、わるいおじさん、いろんなおじさん。
私が持つおじさん像は山月記の李徴を熟成(?)させたようなイメージだ。 尊大な羞恥心と臆病な自尊心ってやつだ。 それに加えて、やたらマウントを取ってきたり、自分の経験をひたすら讃えさせる。そういったイメージだ。 人それぞれ持つおじさん像は違うだろうが、少なくとも私はそう思っている。
しかし、今回ご紹介するおじさんは、そういった存在とは正反対に位置する。
天然記念物を絶やしてはならない
さて、そのおじさんについて話す前に1つ説明したいことがある。 「今回紹介するおじさんについて特定できるような情報は一切明かさない」ということだ。
不可逆なものを扱う時には神経質にならざるをえない。 1度絶滅した種がもう蘇らないように、1度知ってしまったものを忘れることはできない。忘れさせることもできない。 例えば、私に対して誰かが「句読点の位置がめっちゃおもしろい」とか言い出したら、私は、もう、以前の、句読点の使い方は、できなくなるだろう。 少なくとも私はその程度の胆力しか持ち合わせていない。
これから話すおじさんについても干渉してしまわないよう丁寧に扱わせてもらう。 おじさんのTwitterアカウントもブログもここでは明かさない。 もしおじさんが、自身のブログを「よくわからない界隈の人達にネタにされている」と知ったらもう以前のおじさんではなくなってしまうだろう。 それは絶っっっ対に避けなければならない。
さて、そのおじさんについてだがその天然記念物的希少な存在であることから、インターネット上の天然記念物おじさん略して「天おじ」と呼ばせてもらう。
天おじがこのブログのことを知らないまま天寿を全うすることを願う。
天おじとは
天おじを知ったのはいつだったか。 Twitterでたまたまリンクが貼られているツイートを見つけて、そのまま導かれるようにブログの記事を読んでしまった。 衝撃だった。
いくら説明しても天おじのブログを表現することは難しいので、それを模した文章を以下に記述する。
タイトル: ○家 ごろごろチキンの××カレー
天おじです。
○家でごろごろチキンの××カレーが販売開始ということで、、、
賞味してきました。 時間は○時○分。
お店の前にはカレーのタペストリーがあります。(ここでタペストリーの写真)
ポスターもありますね〜(ここでポスターの写真)
まずは券売機へ(券売機の画像が5枚ほど続く)
(中略)
食券を眺めてみます。❏❏と書かれてますね〜 店内にもポスターがありますね〜(ここでポスターの写真) (カレーが配膳される) それぞれ見ていきます(各具材をズームした写真が続く) カレーですね〜 味噌汁ですね〜 〇〇でおいしかったです(ここらへんは適当な食レポが続く)
といった感じ。 あくまで模したものなので、本物の体験は得られないので本当に申し訳ない。 ただ私にとっては価値観を変えられるほどの衝撃だった。
こういった記事の何が凄いのか?何故ただのひとりのブログに心動かされるのか? ひとつひとつ解き明かさなれば気が済まない。
というわけで、天おじブログの特徴を挙げながら、その素晴らしさを述べていこうと思う。
全然おもしろくない
知っている人にだけ伝わればよいが、いわゆるsyamu_gameの商品レビューのようなものに近い。 淡々と商品の説明を列挙し、枝葉末節を取り上げて紹介する。そんな記事ばかりである。
コンビニのサラダ巻きの包装がポリプロピレンでできていること書く必要あるか? 松屋の店の前の段階で5枚も写真撮る必要有るか? 毎回書き起こすほどレシートに書いてあること大事か? なぁ?どういう感覚?
ちょっとウケ狙いしたいのか変なオノマトペを使ったり、クスリともこないギャグのようなものもあったり。 もはやスベっているという言葉さえ使うのをためらってしまう。
きっと本気で面白くするつもりはなく、ただただWeb Logを書いているのだろう。 そのくせ、ほんの少しだけ読者を気にしたような軽いおふざけが入っていて、読んでいると雲を掴むようで不思議な気持ちになってしまう。
ちょっとおもしろい
さきほどから面白くない面白くないと書いてきて「ちょっとおもしろい」とは何事か?と、そう思うかも知れない。 まぁ私は笑いのツボが人とずれてると思っているので、皆さんがもし天おじの文を読んでもただたたつまらないと感じるかもしれない。 私もつまらないとは思っている。だが、そのつまらなさが面白くなってしまう時がある。 例を挙げよう。 天おじが飲食店で味噌汁の器の蓋を開ける時に毎回使うワードがある。 「ぱかッ」である。 持ちネタなのかわからないが、毎回毎回毎回毎回「ぱかッ」を使う。 なんだか面白い。
そして、商品の写真を上げる時に1枚では飽き足らず何枚も写真が上げられている。 必ず真上と斜めからの2つの写真が載っている。 必ずだ。 1つ目の写真が見えて「あぁ次は斜めからの写真が来るんだろうな」と思ってスクロールをすると、やっぱり斜めからの写真が貼られている。 なんだか面白くなってくる。うん、面白い。
おそらくそういった繰り返されるパターンがお笑いにおける"天丼"に似た面白さを醸し出してくれるのだろう。 あとは、行動原理がよくわからない不可解なものがなんだか面白くなってしまうのであろう。 コウメ太夫で笑ってしまうのと同じな気がする。
人となりがわからない
いわゆるバカッターってありますよね? ああいった炎上で学校が特定されたり、家が特定されたりすることってよくある。 だが、天おじの家や職場を特定できないだろう。 ヒントが全く見つからないからだ。 インターネット上に徒然なるままブログを投稿し続ければ、どうしてもパーソナルな部分が浮き彫りになってくるものだ。 しかし、天おじに関してはそういった匂いが全くしない。 特定できることはせいぜいお気に入りのチェーン飲食店ぐらいだろう。
これは簡単なようで実は非常に難しい。 長い間インターネットに浸ると心の境界線が曖昧になり、どうしても個人情報が漏れ出てしまうものだ。 自尊心から自身の持つ承認欲求を隠してしまいがちだが、やはり人間は互いに存在を認め合わなければ生きていけないだろうし、あらゆる活動の原動力として承認欲求は大きな役割を占めているだろう。 しかし、全く持って天おじから承認欲求が感じられないのだ。 個人情報の切り売りをしないことは徹底しており、まず年齢がまったくわからない。 「おじさん」と命名したものの20代の可能性もあるし、女性の可能性も0ではない。 まぁ私も最低限おじさんか否かのセンサーは持ち合わせているつもりなので、きっとそこそこの年の男性だろうとは推測している。
それでも確定的ではないので、過去の天おじの記事を遡ったことがある。 1つ見つかったのが節分の豆を食べるという記事だ。 食べる豆の数について何か言及があるかと思ったが、一切明かそうとはしなかった。 「年齢の数だけ並べてみます」と画像を載せていたが、そこには17個のお豆。
いやいや、井上喜久子かおまえは???
とにかく年齢すらもわからない。
天おじに何を学ぶ
我々は天おじを見習うべきかもしれない。
目指すべきおじさん像なのかもしれない。
私はこの1年でいろんなおじさんにであった。 アムウェイおじさんの話もしたいが、今回は控えておこう。 とにかく言いたいのは、どのおじさんも自分を大きく見せようと必死にもがいていた。 でも天おじは違う。ただ楽しく定食屋の新メニューを食べたことを記事にして人生を謳歌している。 マウントを取ろうとするような匂いも全くない。 きっと自分の世界で自分の幸福を見つけてしまったのだろう。
私は何年経てばそういった人間になれるだろうか。 自尊心と承認欲求のバケモノになってしまうのは簡単だ。 心の箍が外れてしまえば、人はいつでも悪いおじさんになるだろう。 本当に目指すべき人物は天おじであり、Twitterでだらだらと自分語りや承認ごっこを繰り返しているままではいけない。 今一度、自身の幸福論とインターネットとの向き合い方について考え直すことが必要かもしれない。
半ば大げさに書いてしまったが、それほど天おじとの出会いは衝撃的なものだった。
令和を生き抜くぞ
少し話が変わって、平成と令和についてちょっと持論を述べたい。
平成はどこか重苦しい空気が漂い、目に見えない閉塞感から脱出しよう、大きな力を持った存在が覇権を握る世界を変えよう。 そんな創作作品が多く作られたように感じる。
まぁあくまで自分の感覚なので、なんの根拠もない。適当言ってるなぁくらいに受け取って欲しい。
では、令和は一体どういったものが生まれるのか、どういった生き方を目指すべきなのか。
そこで天おじである。
天おじは殻にこもりつつ、世界とつながることを成し遂げている。 自分の面白いと思ったこと、好きだと思ったことを続ける。 それをただ脚色するでもなく、自慢するわけでもなく淡々とインターネット上に公開する。 それも何年という単位で。
それが他人から面白くないと思われていても、知らぬが仏である。 私は天おじに対して面白くないぞ だなんて言うつもりもないし、言う権利もないし、言っても無駄だろう。 その世界で完結しているからだ。
Twitterをやっている人は自分の通知欄をひたすら見返してみるといい。 自分が他者に承認されていると感じるだろう。 我々は大なり小なり、他者からのリアクションを通して承認欲求を見たしている。
それもまた現代っぽい生き方かもしれない。 しかし、天おじを知って、自分の幸福論で自分の世界を作っていくのが正解なのではないかと思ってしまった。 世界を革命する必要もなければ、親殺しをする必要もない。 ただ殻の中から少し顔を出していればよい。
本当はおじさんのブログを覗いている場合じゃないんだ。 他人の動向に依存する幸福から離脱するのが令和だと、私は考える。
天おじはそれをいち早く(2014年頃)実践していた。 そもそも初期のインターネットは今のようなSNSのつながりは無かったわけで… しかし、そういった過去の個人サイト時代のインターネットにも根底には承認欲求があっただろう。
やはり、天おじは新人類だ。
最後に
ここまでだらだらと綴ってきたものの、私は天おじのことがまだまだわからないし、もっと知りたいとも思っている。 これからもこっそり見つめていきたいと思う。
とはいえ、こんな面白い人物がインターネット上にいるのだから、もっと色んな人に知ってもらいたいという気持ちは有る。 もし知りたいという気持ちを強く持っていて、天然記念物のように大切に扱うと誓うことができるならDMで言っていただければ(もしかしたら)教えるかもしれない。
この記事自体はそういった「共有したいという気持ち」と「自分だけの秘密にしたいという気持ち」のアンビバレントから生まれたお気持ち長文だ。
はぁ…ざっとコミケ後のライブ感で急いで書いてみたが、正直天おじには神格化に近い感情さえ生まれ始めている。どうすればいいんだ… なんもわからん
とにかく… みなさんも自分だけが知っている秘密の天然記念物おじさんを見つけてみるのはどうだろうか? そう簡単に見つかるものでもないが、世界にはそういった希望があることを知ってほしい。
以上、長文駄文失礼いたしました。